2016年 10月 17日
11年前の昨日の私 |
11年前の昨日
2005年の10月16日
1001夜の成就を間近にした
私のエッセイ「折々の折り」に
「50歳」と題して・・こんなこと書いてる
1001夜の944夜である
いささか憂鬱な思いにとらわれた。
人並みに老いを意識せざるを得ない気がしたからだった。
確かに50歳ともなると、
仕事だって半ばゴールが見えてくるし、
子どももあらかた巣立つ頃合いではある。
男も女も大きな節目にさしかかる年齢には違いない。
しかし、
役目を負った時代だけが人生ではない。
役割からの解放をどう受け取るか、
それが象徴としての50歳じゃなかろうか。
一升瓶に丁度半分の酒があるとして、
ひとは二通りの見方をする。
「もう半分・・」と「まだ半分・・」である。
事実なら「二分の一」だが、
真実ということになると、
ひとそれぞれに受け取り方は違う。
「まだ」も「もう」も、
目に見える事実に主観が加わったそのひとの真実なのである。
事実は争いようがないが、真実なら思いは分かれる。
50歳は、誰にでも否応なしにやってくる。
そのとき、
目に見える事実にどう主観を加えることができるか・・、
それが「夢」じゃなかろうか。
役目を果たすことに全力を費やしている時代には見えない「夢」、
50歳はそれを見つけるチャンス、
おぼろげだったが、そんなことを考えたのを思い出す。
人生の殆どは偶然のようにめぐりゆく時間である。
思い通りになることなど滅多にない。
にもかかわらず、
僅かでも得心のゆく時間がもてるとすれば、
それは「夢」を描いて、そこに向かうことでしかない。
陶芸に出会ったのは52歳のとき。
かねてやってみたいこととして温めていたとはいえ、
その始まりはやはり偶然みたいなものだった。
しかし、やがて私の人生の終章を支える夢となった。
見知らぬどなたかの許に旅立つ器に箱書きしながら、
それはまるでメッセージ・インナ・ボトルでもある。
夢を託して・・と書いたら、
あまりに青臭いと言われるだろうか・・。 』
50歳の日からなら
既に四半世紀に近い日々が過ぎた
52歳の年に出会った陶芸を
晩学の夢として・・夢中で始めたころだ
夢ではあったが・・やがて
それを仕事にすると決めた
「プロ」・・この言葉の響きにも
夢を感じていた
組織で生きてきた人間には
独っきりで全てを賄う物づくりは
ひとつの憧れだったような気がする
だから・・プロという言葉に惹かれた
あれから25年・・夢で始めた陶芸も
仕事にしてから・・20年
趣味なら楽しいだけで済んだことも
仕事となれば・・そうもゆかない
僅かながらもしていることに社会性が生まれ
緊張と忍耐も必要だからだ
70歳を超えて・・明らかに劣化してゆく体と頭
今までにない不安を感じる日々だが
できるだけ工房に籠って作ることが
一番の精神安定になるようだ

by touseigama696
| 2016-10-17 03:38
| ○折々の折り
|
Comments(2)
人生50年・・
折り返した年数が、日々、老いと戦っている錯覚が
こんな平凡すぎる私でも起きます・・(笑)
50歳で、家庭という安住に居座ったとき
万年平社員の主婦業を選択した事への喜びは密かに感じました
そんな私から見れば・・
貴方様の生き方そのものは、神々しく思えてなりません
くれぐれもご自愛くださり、素敵な作品に命を灯してくださいませ
折り返した年数が、日々、老いと戦っている錯覚が
こんな平凡すぎる私でも起きます・・(笑)
50歳で、家庭という安住に居座ったとき
万年平社員の主婦業を選択した事への喜びは密かに感じました
そんな私から見れば・・
貴方様の生き方そのものは、神々しく思えてなりません
くれぐれもご自愛くださり、素敵な作品に命を灯してくださいませ
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