2013年 04月 05日
豚児庵遺言(1) |
=ご挨拶=
「番組制作プロデューサー」「病院事務長」「陶芸家」
見事なまでに支離滅裂な私の人生。
終身雇用が普通だった時代に、節操がないと言えばない。
もしかすると、そうしたいい加減さを覚えたのは、
最初がテレビ番組の制作プロデューサーだったことによるかもだ。
つまり、あの仕事は、番組が変われば、
自分の頭も身体もそれに合わせて変わらねばならない。
昨日までの旅番組が、今日からはスポーツ番組、
舞台も関わる専門家も、全てが変わってそれに慣れる。
仕事も同じだったのかもしれない。
病院事務長も陶芸家も、担当する番組が変わっただけ。
そう思うと、なにやら腑に落ちるものもある。
しかし、そうした支離滅裂な変化で生きてきた人生に、
ひとつでも意義を探せというなら、迷うことなくこう言いたい。
支離滅裂だが特異な体験と豊かな人との出会い、
とりわけ、様々な分野でのプロたちとの邂逅。
これこそ我が人生の宝だということだ。
このブログを始めたころ、いつか書いてみたいと思ったのは
この支離滅裂な体験を通した我が人生が、その最終章に
少しは気の利いたメッセージを残せないかということだ。
出来るという自信は今もないが、
陶芸に収斂してゆく色々な体験を、思い出しながら綴ってみようと
今年になってから、思いはじめていた。
死んだ親父が、幼いころの私を他人に紹介するとき
「豚児(とんじ)です」と言ったのを覚えているが、
「麒麟児(きりんじ)」と言われるよりは遥かにましで
気楽に育つことができたのもそのお陰の筈である。
その豚児も古来稀なる古稀70歳にもなり、
豚児は豚児なりに、生きた証を残そうと思うのだ。
不定期ではあるが、この先「豚児庵遺言」と題して
思うところを書いてゆくことにした。 ご笑覧賜ればである。

第16回日本陶芸展 入選作「黒天目組鉢」
豚児庵遺言
(1) 「日本陶芸展」13/04/05
「作品番号243番 黒天目組鉢ですけど・・」、
決められた日の決められた時刻、殺到する電話に先駆けて、
真っ先にダイヤルした電話の向こうで、ちょっとした沈黙が続いた。
「・・243番三崎さんですね?」。
「そうです」。
「おめでとうございます、入選です」。
「ほんとですか?、まさか隣りの方の番号じゃないでしょうね?」
受話器から、小さな笑い声が聞こえた。
「大丈夫みたいですよ、おめでとうございます」。
2001年春、第16回日本陶芸展 第三部 実用陶器部門の発表
187点の応募の内、入選39点に選ばれた。
一瞬は我が耳を疑ったが、やがて腹の底から喜びがほとばしった。
妻に伝えても、暫くはピンと来ないようだった。
無理もない、この展覧会の厳しさは出品する者にしか分からない。
52歳で始めて6年目の陶芸、まだアマチュアの域だが、
いきなりプロがしのぎを削るこの展覧会で、初出品が初入選したのだ。
この夜を境に、私の中の陶芸は明らかに変わった。
プロになろうとして始めたわけじゃないが、だからといって、
手慰みの遊びで終わらせたいとも思っていなかった。
その本気がどこまで通じるか、とことん追求してみたくなった。
俗に言えば目の色を変える、きっと変わった筈である。
稽古の仕方も、何を作るかのコンセプトも、
それがどう自分の世界につながるかも、真剣な課題になった。
日本陶芸展の第三部は、実際に使えることを前提にした制作、
いってみれば職人芸の追求である。
同寸同姿の確かなロクロ技術、安定した発色、焼成が競われた。
しかし、一方で鑑賞に傾くとはいえ、
大きな一点ものに絢爛な装飾、釉調を競う第一部の伝統部門は
やはり心をそそるものだった。
いずれ、一部にも応募してみたい欲望が芽生えた。
そこにつながる苦しい経緯は別に書くことにして、
結果的に、日本陶芸展は私に思いがけない結果をもたらした。
2001年 第16回展 第三部 初出品初入選
2003年 第17回展 第一部 第三部 同時入選
2005年 第18回展 第一部 第三部 同時入選
2007年 第19回展 第一部 入選
2009年 第20回展 第一部 入選(賞候補)
2011年 第21回展 第一部 入選(文部科学大臣賞受賞)
何と6回連続入選で、内2回は二部門同時入選、
おまけに受賞扱いの賞候補に続き、前回は優秀作品賞
文部科学大臣賞を受賞することになった。
まさに望外の成果である。
入選もさることながら、メジャーでの受賞は、
晩学の陶芸には奇跡みたいなもの、信じがたい思いは今でも同じだ。
こうした奇跡に助けられて、
いつの間にやらプロへの道を歩きはじめていた。
「プロ」、陶芸にライセンスはない。どこまでも自称の問題だが、
それでも、多少もっともらしく名乗れるのは、
こうした入選、受賞のおかげでもある
大学を卒業して、社会人第一歩はテレビの番組制作、
いわゆるプロデューサー業で、とことん寝る間を惜しんで働いた。
挙句に身体を壊してリタイア。
40代~50代は新設の病院に関わり、初代の事務長に就任。
病院が軌道に乗ったのを機会に、やや早期退職して陶芸に転じた
50代半ばのことだった。
プロデューサー、病院事務長、陶芸家、およそ因果でつながっていない。
今、終の棲家の陶芸家という「家」に住んで、しみじみ思うことは、
日本人の好きな「この道ひと筋」に徹した人生ではなかったが、、
こんなに面白いことが沢山転がっていたら、到底ひと筋で終われない、
という皮肉な美学である。ために損したことも多かったが、
二度の転職に「昔取った杵柄」を使わなかったこと
それこそが、皮肉な美学の実相なのだ。
何時の場合も、ゼロからの出発だった。
病院事務長で終わって不思議でなかった人生に、
最後の転職「陶芸家」への道が、如何に不思議な偶然に支配されてきたか
おいおいに書いてみたいと思う。
応援してくださる方・・クリックしてネ!
「番組制作プロデューサー」「病院事務長」「陶芸家」
見事なまでに支離滅裂な私の人生。
終身雇用が普通だった時代に、節操がないと言えばない。
もしかすると、そうしたいい加減さを覚えたのは、
最初がテレビ番組の制作プロデューサーだったことによるかもだ。
つまり、あの仕事は、番組が変われば、
自分の頭も身体もそれに合わせて変わらねばならない。
昨日までの旅番組が、今日からはスポーツ番組、
舞台も関わる専門家も、全てが変わってそれに慣れる。
仕事も同じだったのかもしれない。
病院事務長も陶芸家も、担当する番組が変わっただけ。
そう思うと、なにやら腑に落ちるものもある。
しかし、そうした支離滅裂な変化で生きてきた人生に、
ひとつでも意義を探せというなら、迷うことなくこう言いたい。
支離滅裂だが特異な体験と豊かな人との出会い、
とりわけ、様々な分野でのプロたちとの邂逅。
これこそ我が人生の宝だということだ。
このブログを始めたころ、いつか書いてみたいと思ったのは
この支離滅裂な体験を通した我が人生が、その最終章に
少しは気の利いたメッセージを残せないかということだ。
出来るという自信は今もないが、
陶芸に収斂してゆく色々な体験を、思い出しながら綴ってみようと
今年になってから、思いはじめていた。
死んだ親父が、幼いころの私を他人に紹介するとき
「豚児(とんじ)です」と言ったのを覚えているが、
「麒麟児(きりんじ)」と言われるよりは遥かにましで
気楽に育つことができたのもそのお陰の筈である。
その豚児も古来稀なる古稀70歳にもなり、
豚児は豚児なりに、生きた証を残そうと思うのだ。
不定期ではあるが、この先「豚児庵遺言」と題して
思うところを書いてゆくことにした。 ご笑覧賜ればである。

豚児庵遺言
(1) 「日本陶芸展」13/04/05
「作品番号243番 黒天目組鉢ですけど・・」、
決められた日の決められた時刻、殺到する電話に先駆けて、
真っ先にダイヤルした電話の向こうで、ちょっとした沈黙が続いた。
「・・243番三崎さんですね?」。
「そうです」。
「おめでとうございます、入選です」。
「ほんとですか?、まさか隣りの方の番号じゃないでしょうね?」
受話器から、小さな笑い声が聞こえた。
「大丈夫みたいですよ、おめでとうございます」。
2001年春、第16回日本陶芸展 第三部 実用陶器部門の発表
187点の応募の内、入選39点に選ばれた。
一瞬は我が耳を疑ったが、やがて腹の底から喜びがほとばしった。
妻に伝えても、暫くはピンと来ないようだった。
無理もない、この展覧会の厳しさは出品する者にしか分からない。
52歳で始めて6年目の陶芸、まだアマチュアの域だが、
いきなりプロがしのぎを削るこの展覧会で、初出品が初入選したのだ。
この夜を境に、私の中の陶芸は明らかに変わった。
プロになろうとして始めたわけじゃないが、だからといって、
手慰みの遊びで終わらせたいとも思っていなかった。
その本気がどこまで通じるか、とことん追求してみたくなった。
俗に言えば目の色を変える、きっと変わった筈である。
稽古の仕方も、何を作るかのコンセプトも、
それがどう自分の世界につながるかも、真剣な課題になった。
日本陶芸展の第三部は、実際に使えることを前提にした制作、
いってみれば職人芸の追求である。
同寸同姿の確かなロクロ技術、安定した発色、焼成が競われた。
しかし、一方で鑑賞に傾くとはいえ、
大きな一点ものに絢爛な装飾、釉調を競う第一部の伝統部門は
やはり心をそそるものだった。
いずれ、一部にも応募してみたい欲望が芽生えた。
そこにつながる苦しい経緯は別に書くことにして、
結果的に、日本陶芸展は私に思いがけない結果をもたらした。
2001年 第16回展 第三部 初出品初入選
2003年 第17回展 第一部 第三部 同時入選
2005年 第18回展 第一部 第三部 同時入選
2007年 第19回展 第一部 入選
2009年 第20回展 第一部 入選(賞候補)
2011年 第21回展 第一部 入選(文部科学大臣賞受賞)
何と6回連続入選で、内2回は二部門同時入選、
おまけに受賞扱いの賞候補に続き、前回は優秀作品賞
文部科学大臣賞を受賞することになった。
まさに望外の成果である。
入選もさることながら、メジャーでの受賞は、
晩学の陶芸には奇跡みたいなもの、信じがたい思いは今でも同じだ。
こうした奇跡に助けられて、
いつの間にやらプロへの道を歩きはじめていた。
「プロ」、陶芸にライセンスはない。どこまでも自称の問題だが、
それでも、多少もっともらしく名乗れるのは、
こうした入選、受賞のおかげでもある
大学を卒業して、社会人第一歩はテレビの番組制作、
いわゆるプロデューサー業で、とことん寝る間を惜しんで働いた。
挙句に身体を壊してリタイア。
40代~50代は新設の病院に関わり、初代の事務長に就任。
病院が軌道に乗ったのを機会に、やや早期退職して陶芸に転じた
50代半ばのことだった。
プロデューサー、病院事務長、陶芸家、およそ因果でつながっていない。
今、終の棲家の陶芸家という「家」に住んで、しみじみ思うことは、
日本人の好きな「この道ひと筋」に徹した人生ではなかったが、、
こんなに面白いことが沢山転がっていたら、到底ひと筋で終われない、
という皮肉な美学である。ために損したことも多かったが、
二度の転職に「昔取った杵柄」を使わなかったこと
それこそが、皮肉な美学の実相なのだ。
何時の場合も、ゼロからの出発だった。
病院事務長で終わって不思議でなかった人生に、
最後の転職「陶芸家」への道が、如何に不思議な偶然に支配されてきたか
おいおいに書いてみたいと思う。

by touseigama696
| 2013-04-05 23:01
| ●豚児庵遺言
|
Comments(10)
おめでとうございます
何事も途中で投げ出すことなく
続けることが一番ですね
トロフイーが沢山並んでいることでしょう、すばらしいですね。
何事も途中で投げ出すことなく
続けることが一番ですね
トロフイーが沢山並んでいることでしょう、すばらしいですね。
0
先生の豊かな経験が陶芸の源、その引き出しの多さは何よりの財産ですね。
先生が陶芸を始めた年齢に未だ満たない私ですが、窯だ行進曲にとても励まされていました。古希からの豚児庵通信楽しみに・・・、あれ遺言ですか? 先生気が早すぎますって(笑)
先生が陶芸を始めた年齢に未だ満たない私ですが、窯だ行進曲にとても励まされていました。古希からの豚児庵通信楽しみに・・・、あれ遺言ですか? 先生気が早すぎますって(笑)
こんばんは!
またまた超面白い企画を連載するのですね。楽しみにしています。
あと何十年も書きつづけることになるのでしょうね〜「豚児庵遺言」・・・こちらが先に雲の上から読むことになるかも >>笑
さて、日本陶芸展のレセプションでは、藤井さんの受賞に立ち会えてうれしかったです。帰り際にご一緒させていただき、笠井さんのとの幸せ感一杯を見せつけられて・・でも心和む一時でした。そして新しい出会いにも感謝しています。
ただ、三崎さんとの日本陶芸展での出会いが、全ての始まりだったので、やっぱりそこにいるひとがそこにいないのはなんか物足りなさがありました
そんなことを車の中で梅澤さんと話ながら帰途についた長い1日でした。
ではまた!!
またまた超面白い企画を連載するのですね。楽しみにしています。
あと何十年も書きつづけることになるのでしょうね〜「豚児庵遺言」・・・こちらが先に雲の上から読むことになるかも >>笑
さて、日本陶芸展のレセプションでは、藤井さんの受賞に立ち会えてうれしかったです。帰り際にご一緒させていただき、笠井さんのとの幸せ感一杯を見せつけられて・・でも心和む一時でした。そして新しい出会いにも感謝しています。
ただ、三崎さんとの日本陶芸展での出会いが、全ての始まりだったので、やっぱりそこにいるひとがそこにいないのはなんか物足りなさがありました
そんなことを車の中で梅澤さんと話ながら帰途についた長い1日でした。
ではまた!!
kumaさん
ありがとうございます
公募展は・・雲の上に思えても
誰もが同じようなあことを感じながら出してるものです
だから・・誰にだってチャンスがあるわけで
出さなきゃ始まらない・・それだけのことですよ
落ちても出す・・その我慢は大事でしょうけどね
是非・・チャレンジしてみてください
確実に腕はあがります
ありがとうございます
公募展は・・雲の上に思えても
誰もが同じようなあことを感じながら出してるものです
だから・・誰にだってチャンスがあるわけで
出さなきゃ始まらない・・それだけのことですよ
落ちても出す・・その我慢は大事でしょうけどね
是非・・チャレンジしてみてください
確実に腕はあがります
