2013年 03月 24日
板谷波山・・折々の折り05/03/10 |

折々の折り753話/1001夜 『板谷波山』2005/03/10
明治以降・・日本を代表する陶芸家に板谷波山という巨匠がいた
陶芸家として初めての文化勲章受賞者である
陶芸を工芸から芸術の域にまで高めた功労者だからである
この達人が生まれたのが茨城県だった
だから茨城工芸界にとって・・板谷波山は輝かしい巨星である
県展の陶芸部門に「波山賞」という賞がある
最も名誉ある賞である・・「波山」その号の由来は筑波山なのだ
郷土への深い思いを自分の号にしたのである

荒川正明著「板谷波山の生涯」を読んでいて・・こんな一節に出会った
原文は長いのでやや意訳して書けば
「波山の長男菊男は・・一時期父の仕事を手伝い制作していたことがある
大正八年には父に代わって磁器花器を三点出品し・・入選している
菊男は芸術的天分に恵まれていたが
結局父を継ぐことはなく・・早稲田の国文科を出て
開成学園で国語の教鞭をとっている・・」
そして、更に
菊男は・・生前に一冊の短編集をだした
「天狗草紙」と題し・・平安時代の「古今著聞集」を倣った著作だが
出版に際して・・菊男は開成学園の教え子吉村昭氏に
原稿を見せて・・批評してほしいと頼んだ
師の著作の批評を教え子がするというのも気が重いとしながらも
実はこれが傑作だということがわかって
吉村氏は前書きにそのいきさつを書いた・・・ともある
昭和30年代初期・・この開成学園で
私もまた板谷菊男先生に国語を習った
「お化け」というのが先生のニックネームだった
それは古今著聞集が下敷きにあったからだ
当時・・既に還暦間近だった先生の飄々とした話術は懐かしい
130年を越える校史に燦然と名をなす名物先生だった
時折・・授業の合間に尊父波山の話をされたのを覚えているが
ご自身が作陶されたことは初めて知った
在校時代・・何人かの恩師の自宅を訪ねたことがあるが
何故か学校からほど近い板谷先生を訪ねたことはなかった
年賦によれば・・その頃波山さんも存命で工房で仕事もされていたことになる
もしお邪魔していれば・・名工の晩年に触れることができたかもしれない
今になれば誠に残念なことだが
当時の子ども心に陶芸は未だ芽生えていなかった
波山先生が亡くなったのは・・我々が卒業した二年後であり
恩師のお化け先生は・・昭和59年に85歳で逝かれた
巡りめぐって今・・波谷ゆかりの茨城県展に毎年出品を繰り返し
厳しい審美の洗礼を受けている
その度に・・筑波山を左に眺めて走るのである
恩師を通して・・今仰ぎ見る波山の姿は遥かに遠い
そして「板谷波山の生涯」の冒頭の一節もまた心に銘じておこう

「良心の許さない作品は後世に残すべきではない・・だからこれは壊すのだ」
という波山に・・それなら是非私にくださいといって貰い受け
この作品に「命乞いの茶碗」と名づけて
大事に保存したというエピソードである
この名づけ親こそ・・出光興産の創始者出光佐三なのだそうだ
生涯に1000点ほどしか世にださなかった波山
おそらくその何倍も作ったに違いない
物原に壊して捨てられた無数の作品は
名工の芸術的良心によって愛しく弔われたのだ
そして・・その寡作の三分の一は出光美術館にある
美とはそうした厳しさと優しさに彩られたものなのだろう

by touseigama696
| 2013-03-24 00:43
| ○折々の折り
|
Comments(4)
30年程前に私が陶芸と出逢い「芸術とは何ぞいや」と迷った時、「命乞いの茶碗」のエピソードが全てを解決してくれました。
勿論、その後の人生観さえも・・・。
勿論、その後の人生観さえも・・・。
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はるこさん
ありがとうございます
偶然が・・ひとの関わりに深く潜んでいるものですが
後になって・・あのときのもしがみな叶っていたら
かえって感動から遠のくのかもしれません
惜しかったなぁ~って・・それがいいのでしょう
ありがとうございます
偶然が・・ひとの関わりに深く潜んでいるものですが
後になって・・あのときのもしがみな叶っていたら
かえって感動から遠のくのかもしれません
惜しかったなぁ~って・・それがいいのでしょう