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桃青窯696

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50歳からのプロ・・・ここでは陶芸家らしく・・

カテゴリ:●豚児庵遺言( 4 )

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古希70歳を超えて4年目が近い
その古希を境に
体力や気力の衰退は・・目に見えてきた

誰にでも・・そこら辺が目安だろうが
残された「生」を考えると同時に
「死」もまた・・思考に同居するようになる

触れれば
「そんな縁起でもない!」と言われもするが
誰にでも必須の死を・・縁起で片づけてしまうと
実際に直面したら・・きっと狼狽える

俗に言う「こころの準備」
これをしておいて無駄にはなるまい
つまり自分なりの死生観ってやつだ
私は・・こう思うことにしている

死は・・誰にでも一回こっきりの体験
ガイドブックがあるわけでもないし
誰かの経験談を聞いたこともない
してみると
死の一番の不安は・・未経験ということだ

「いやぁ~最初のときはドキドキしたけど
二度目ともなると・・結構上手く死ねるもんです」
これができないとこが・・死なのだ

最近
このことに・・ひとつの答えを見つけた
というのは
この数年・・同期の旧友の中にも
異境に逝った親友も数名いる
そして・・今となると
結局彼らも・・穏やかに逝った
古い言葉だが・・「従容として逝った」のだ
だから
「竹馬の友だったあいつに出来たことなら・・
きっと私にも出来る」
そう思うことにしたのだ

「食べなかった人間は・・ひとりもいない
私もまた・・そのひとりにすぎない」
同様に
「死ななかった人間も・・ひとりもいない
私もまた・・そのひとりにすぎない」

同じことと思えば・・少しは気も休まろう

更に科学や医学が進歩し
(これを進歩と言うかは別問題だけど・・)
「生還できる臨死体験」・・なんてツアーができて
「宇宙船で宇宙の旅を!」と・・張り合う時代
あるかも・・
きっとこっちの方が・・希望者が多そうだ

でも間違いなく・・私には間に合わない
異境の友に
「メールで・・色々書いてみて!
昔通り・・オマエの助言には従うからさ」

浅草の主治医だったあいつも・・近々三回忌
「記念講演用意するから・・
三途の川を渡って戻ってこいよ!」

メールにそう書いたが・・アドレスが判らない

wwwは・・world wide web
世界中に張り巡らした蜘蛛の巣・・の意味だが
もっとでかい蜘蛛の巣作って
worldを・・universalにしてくれないかな



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by touseigama696 | 2016-03-09 05:15 | ●豚児庵遺言 | Comments(4)
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久し振りの「豚児庵遺言」・・今朝は
日課と健康管理のことを・・書いてみようと思う

今日と明日・・いつもの通り4㌔を歩くと
通算で2.500㌔歩くことになる
直線距離でなら・・羽田~グアム島の距離らしい

一昨年の夏・・500㌔記念に
京都三条大橋の上に立って
東海道五十三次踏破・・独りイベントで
気分を盛り上げたのを思い出すが

さすがに・・2.500㌔記念で
グアム行きは・・いささか億劫だし
それに独りじゃ・・つまらない
そこで・・丁度45年前
取材で行った当時のグアム島の
写真を一葉アップすることにした

20代後半のあの頃・・
休む暇も・・寝る暇も惜しんで
仕事一図の日々だったか・・
その無理がたたって・・一度だけ
機上で心臓発作を起こし・・
当時のアンカレッジでいきなりの入院
3か月ほど寝て暮らした
身体を意識した最初の体験だった

そのリハビリから立ち直って
テストフライのつもりで出かけたのが
このグアム取材だった・・あれから半世紀
当然のことながら・・かなり衰えてきた
無理もない・・古来なら稀な70年を越えて
こき使った体のつけ・・傷ついてて当たり前

そんな自覚もあるから・・主治医の助言に従い
幾つかの日課を守って・・身体の管理をしてる
睡眠を考えるのも・・食事を加減するのも
毎晩歩くのも・・身体のためには違いない

「長生きしますねぇ!・・」
健気さに・・そう言ってくれひともいる
しかし・・私にとって「長生き」は
それが最終の目的でも目標でもない

古希から先は・・幾つだろうが全部長生き
問題は・・どう生きるか?だと思う
100歳を超え・・ギネスと勝負するのも一つだが
それは・・私の望むところではない

色々な日課で・・自分を戒めているのは
それなりの狙いがあってのこと・・

「ただちに命に及ぶわけではないが
しかし・・日々の暮しには大きな支障になる
幾つもの成人病・・血圧もある・・糖尿もそうだ
血管の劣化がもたらすもの・・肝腎もそう
そうした病をできるだけ回避して・・
それでもなお何時かは訪れる死に至る病
それが何歳であろうと・・受け入れればいい」

可能な限り・・自分のことは自分でして
ロクロや窯のそばにいて
思いがけない運不運に一喜一憂する日々
そのための身体と頭を確保しておきたいのだ

肩腱板断裂・・左脚血行障害・・長年の腰痛
満身創痍で・・痛みのない日はないが
眠れてる・・しっかり食べられる・・歩けてる
恵まれてるといえば・・恵まれてる方だ

52歳からの晩学陶芸
未だに新しい発見に心ときめくが
似たような年代で・・頑張る方々に
少しでもヒントになるならば・・と
劣化する脳に鞭打っての・・日々更新
お読みくださってる多くの方々に・・感謝である




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by touseigama696 | 2015-02-16 06:36 | ●豚児庵遺言 | Comments(2)
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(2) 糸抜き技法 13/04/17

「こらっ!・・ぶっ殺すぞ!!」
悲鳴のような急ブレーキがかかって
運転手の怒声が聞こえた

一瞬は訳が分からなかったが、すぐに分かった
赤信号の交差点の真ん中、青信号のダンプが停まったのだ
夢中で考え事してて、まるで気づかずに渡っていた

集中してたなどで言い訳はきかぬが
それほどに自分の仕事に飢餓感があった
10数年前のこと・・

誰のものでもない自分のもの
これを見つけることの難しさは
言葉にできぬほどに苦しいものだ

「うん?・・これってもしかして?」
不意に思いついた技法らしきものを
まるで棋士が手を読むように先を考え始めると
親切な運転手でもないと、幾つ命があっても足りないわけだ

それでいて、大抵の思いつきは
後で図録などで調べてみると
どなたかの仕事の中に吸収されてるものなのだ

この時、頭を巡っていたのは
染織の表現のひとつ、江戸小紋の染めのことだった
遠目には無地だが、近寄れば細かい紋様
京が絢爛なら江戸は粋、そこらへんが好きだった

江戸小紋のような緻密な紋様を
伝来の伊勢型紙を使わずに器面に打てないものか

例えは悪いがチャーシューを作るように
細い糸でぐるぐる巻きにして上から染める
試したこともあるが、壺ならできても皿では出来ぬ
そんなことをあれこれ考えていてのダンプだったのだ

他人事でなら・・
こうした伝説的なエピソードを聞くことはある
あのミスターこと長嶋選手は、
野球のことを考え始めると、右はスパイク左は革靴
それくらい屁のかっぱだったとか

似たことが自分にも起きた
50歳も過ぎてからのことでもあれば
それはそれで夢中の証拠でもあるから
悪いばかりのことでもあるまいと思ったものだ

不思議な偶然はここから始まった

ダンプ事件からほどないことだったと思う
江戸小紋のことはまだ頭から離れがたく
だからといって、活路は見えず焦ってもいた

たまたま銀座に出かけた折に
ふと文具の伊東屋に立ち寄った
若いころ、テレビ時代だが、
近くに私の会社があったせいで
便利に使っていた文具屋さんだった

買いたいものがあったわけじゃないから
最上階からゆっくり眺めて下りた

「曲がるテープ」、手書きのPOPが目に止まった
「ん??・・曲がる?」
確かに一般的な紙テープは曲がらない
これが曲がるというのは何で?

何種類かある幅の中で一番細いテープを
5~6本買ってみることにした
確か1本が4~500円、安いものではなかった

帰宅するや素焼き済みの大皿をだして
0.5mm幅のテープを闇雲に
1.0mm間隔くらいで水平に貼り始めた
目がしばたくような細かい作業だった

1本が16mのリール6本で100m弱
結構な長さなのに、皿の上では隅っこの一部でしかない
大皿一枚張り巡らせるにはほど遠かった

我がままなことだが、貼るのをやめたくなくて
妻に頼んで銀座まで走ってもらい
伊東屋にあるだけを買い集めた

やがて貼り終えて、その上からコバルトを吹きつけた
白い皿が殆ど青い、それほどに極細の線紋になった

やがて本焼きから出してみたら
遠目には無地だが近づけば細かい紋様
それは叶った
しかし、その紋様が何かといわれると
江戸小紋のように茄子・亀・唐草・大根卸し金みたいな
はっきりしたものではなかった

ただじっと見つめていたら、何となく波に見えた
波を描いたわけじゃないが、貼り方が下手だったから
一本一本がよれて、波のように見えたのだった

ならもっと波らしく貼ればいいではないか!
波らしく見えるように貼る・・
10年がかりの改良が始まったのはここからだった
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前回書いた日本陶芸展の第17回展
一部の伝統部門に出品してみたくて
そのための苦しい2年の成果が「波状紋大皿」
未だ「糸抜き」という技法名は使っていない

一部で入選を果たすことができた
これも嬉しかった ここで通ったことが
やがて日本伝統工芸展につながってゆく
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未熟だが自分の世界を見つけた
この悦びは忘れることはできない

糸は物でしかないから
自分からアッピールしてくることはない
もしかしたらこれが大事な素材かもしれないと
気づくか気づかないかの僅かな差で
独創への道は、開かれたり閉じたりなのだ

轢かれてはならぬが、ダンプに怒鳴られたことが
気づく為に必要なものは・・
明らかに「集中」だと、教えてくれたのだ

僅かでも自分だけの世界を見つけられたら
それはもう・・実に幸運なことだと思うが
その幸運には・・相当の代賞を払わねばならない
多分・・それが一心不乱の集中のような気がする







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by touseigama696 | 2013-04-18 00:40 | ●豚児庵遺言 | Comments(4)
=ご挨拶=

「番組制作プロデューサー」「病院事務長」「陶芸家」
見事なまでに支離滅裂な私の人生。
終身雇用が普通だった時代に、節操がないと言えばない。

もしかすると、そうしたいい加減さを覚えたのは、
最初がテレビ番組の制作プロデューサーだったことによるかもだ。

つまり、あの仕事は、番組が変われば、
自分の頭も身体もそれに合わせて変わらねばならない。
昨日までの旅番組が、今日からはスポーツ番組、
舞台も関わる専門家も、全てが変わってそれに慣れる。
仕事も同じだったのかもしれない。
病院事務長も陶芸家も、担当する番組が変わっただけ。
そう思うと、なにやら腑に落ちるものもある。

しかし、そうした支離滅裂な変化で生きてきた人生に、
ひとつでも意義を探せというなら、迷うことなくこう言いたい。

支離滅裂だが特異な体験と豊かな人との出会い、
とりわけ、様々な分野でのプロたちとの邂逅。
これこそ我が人生の宝だということだ。

このブログを始めたころ、いつか書いてみたいと思ったのは
この支離滅裂な体験を通した我が人生が、その最終章に
少しは気の利いたメッセージを残せないかということだ。

出来るという自信は今もないが、
陶芸に収斂してゆく色々な体験を、思い出しながら綴ってみようと
今年になってから、思いはじめていた。

死んだ親父が、幼いころの私を他人に紹介するとき
「豚児(とんじ)です」と言ったのを覚えているが、
「麒麟児(きりんじ)」と言われるよりは遥かにましで
気楽に育つことができたのもそのお陰の筈である。

その豚児も古来稀なる古稀70歳にもなり、
豚児は豚児なりに、生きた証を残そうと思うのだ。

不定期ではあるが、この先「豚児庵遺言」と題して
思うところを書いてゆくことにした。 ご笑覧賜ればである。



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第16回日本陶芸展 入選作「黒天目組鉢」


豚児庵遺言 

(1) 「日本陶芸展」13/04/05

「作品番号243番 黒天目組鉢ですけど・・」、
決められた日の決められた時刻、殺到する電話に先駆けて、
真っ先にダイヤルした電話の向こうで、ちょっとした沈黙が続いた。
「・・243番三崎さんですね?」。
「そうです」。
「おめでとうございます、入選です」。
「ほんとですか?、まさか隣りの方の番号じゃないでしょうね?」
受話器から、小さな笑い声が聞こえた。
「大丈夫みたいですよ、おめでとうございます」。

2001年春、第16回日本陶芸展 第三部 実用陶器部門の発表
187点の応募の内、入選39点に選ばれた。
一瞬は我が耳を疑ったが、やがて腹の底から喜びがほとばしった。
妻に伝えても、暫くはピンと来ないようだった。
無理もない、この展覧会の厳しさは出品する者にしか分からない。

52歳で始めて6年目の陶芸、まだアマチュアの域だが、
いきなりプロがしのぎを削るこの展覧会で、初出品が初入選したのだ。

この夜を境に、私の中の陶芸は明らかに変わった。
プロになろうとして始めたわけじゃないが、だからといって、
手慰みの遊びで終わらせたいとも思っていなかった。
その本気がどこまで通じるか、とことん追求してみたくなった。

俗に言えば目の色を変える、きっと変わった筈である。
稽古の仕方も、何を作るかのコンセプトも、
それがどう自分の世界につながるかも、真剣な課題になった。

日本陶芸展の第三部は、実際に使えることを前提にした制作、
いってみれば職人芸の追求である。
同寸同姿の確かなロクロ技術、安定した発色、焼成が競われた。
しかし、一方で鑑賞に傾くとはいえ、
大きな一点ものに絢爛な装飾、釉調を競う第一部の伝統部門は
やはり心をそそるものだった。
いずれ、一部にも応募してみたい欲望が芽生えた。
そこにつながる苦しい経緯は別に書くことにして、
結果的に、日本陶芸展は私に思いがけない結果をもたらした。

2001年 第16回展      第三部 初出品初入選
2003年 第17回展 第一部 第三部 同時入選
2005年 第18回展 第一部 第三部 同時入選
2007年 第19回展 第一部     入選
2009年 第20回展 第一部     入選(賞候補)
2011年 第21回展 第一部     入選(文部科学大臣賞受賞)

何と6回連続入選で、内2回は二部門同時入選、
おまけに受賞扱いの賞候補に続き、前回は優秀作品賞 
文部科学大臣賞を受賞することになった。
まさに望外の成果である。
入選もさることながら、メジャーでの受賞は、
晩学の陶芸には奇跡みたいなもの、信じがたい思いは今でも同じだ。

こうした奇跡に助けられて、
いつの間にやらプロへの道を歩きはじめていた。
「プロ」、陶芸にライセンスはない。どこまでも自称の問題だが、
それでも、多少もっともらしく名乗れるのは、
こうした入選、受賞のおかげでもある

大学を卒業して、社会人第一歩はテレビの番組制作、
いわゆるプロデューサー業で、とことん寝る間を惜しんで働いた。
挙句に身体を壊してリタイア。
40代~50代は新設の病院に関わり、初代の事務長に就任。
病院が軌道に乗ったのを機会に、やや早期退職して陶芸に転じた
50代半ばのことだった。

プロデューサー、病院事務長、陶芸家、およそ因果でつながっていない。
今、終の棲家の陶芸家という「家」に住んで、しみじみ思うことは、
日本人の好きな「この道ひと筋」に徹した人生ではなかったが、、
こんなに面白いことが沢山転がっていたら、到底ひと筋で終われない、
という皮肉な美学である。ために損したことも多かったが、
二度の転職に「昔取った杵柄」を使わなかったこと
それこそが、皮肉な美学の実相なのだ。
何時の場合も、ゼロからの出発だった。

病院事務長で終わって不思議でなかった人生に、
最後の転職「陶芸家」への道が、如何に不思議な偶然に支配されてきたか
おいおいに書いてみたいと思う。




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by touseigama696 | 2013-04-05 23:01 | ●豚児庵遺言 | Comments(10)