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桃青窯696

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50歳からのプロ・・・ここでは陶芸家らしく・・

『無一物』に見る・・茶碗のあるべきよう

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『無一物』に観る、茶碗のあるべきよう
ここでいう「無一物」とは・・長次郎作の赤楽茶碗で
「無一物」と銘された名碗のことである

茶の湯同好会機関紙「茶の湯」の最新号
その巻頭言が・・林屋晴三氏のこの言葉である

後段の部分を・・引用させていただく
「・・話は変わるが、利休居士の詫び数寄における
想念が具象化されたといえる長次郎の赤楽茶碗
「無一物」を、そのあとに展開して今日にいたる
和物茶碗の造形の原点と見る私は、
若い陶芸作家にそれを鑑賞してもらって、
彼らの茶碗の「あるべきよう」を考えてほしいと願い、
毎年「無一物」を観る茶会を催してきた。

それを手にして彼らは「わかった」ような顔をするが、
彼らが造ってきた茶碗を見ると、多くは自我を表出
させたものを個性の表現と思うのか、私の眼には
およそ茶碗たり得ぬ茶碗を造っている。

私は何のために「無一物」を手にしてもらったのかと
空しくなる。利休居士の心の自由が生み出した
無作為の造形性を深く観てくれないのだ。

「無一物」は茶碗の造形の終着点であり、
原点なのだということを理解したならば、
茶碗というもののあるべきようが自ずからわかる
に違いないと思うのだが。

私は、表面的にわかったと思っていることが
空しくなり、自我の表出を自分の芸術だと思う人とは
会いたくなくなってしまう。」


直言のままに読めば・・厳しい言葉ではあるが
一方で・・氏が席主を務められる茶会では
若い作家の茶陶が・・しばしば使われてもいる
本当に育ってほしいと願われる思いは・・伝わる

手捻りであれ・・轆轤であれ・・
作家が手を出さねば・・茶碗は出来ぬ
しかし・・だからといって
茶碗は・・作家の手だけで出来るわけでもない

使うひとがいて・・そこに普遍的な美があって
なお・・限りなく愛でるひとがいなければ
茶碗の茶碗らしさは・・生まれない

私見ではあるが・・
川喜田半泥子さんの茶碗を観ると
造るひと・・使うひと・・愛でる人
ひとりで全てをやってのけた稀有な作家
そう思うのだが・・せめて
造ることに・・全神経を集めてみたいと
密かに願ったりもするのだ・・だから
使うひと・・愛でるひとの箴言には謙虚たるべし
拝読しながら・・そう思ったのだ
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実は・・昨日の日曜日
私が所属する陶葉会の会員が
御大の神谷紀雄先生の工房に集まり
お招きした林屋晴三先生の眼前に
自作の幾つかを提示し・・講評と助言を頂く
その勉強会が行われた

先生は・・毎年のように「日本伝統工芸展」や
「日本陶芸展」「菊池ビエンナーレ」などで
鑑・審査を務められ・・我々作家には
極めて高名な学術研究者であって
その辛口な講評に何度も冷や汗を流したが
どんなに辛辣であっても・・
その一点をはずしてお目にかかると
実に慈愛に満ちた長老であって・・だから自ずと
「桃李成蹊」の由来ともなるのだ

こうして満面の笑みで講評を聞く作家も
決して褒められてばかりいるわけじゃない
しかし・・おっしゃる意味は深く胸を刺す
下手と言われても・・そこから脱出する術を
同時におっしゃってるからなのだ

「・・さて来年は・・みんなで茶碗を作ってください
それを持って集まりましょう・・議論しましょう!
その時はね・・「無一物」用意します
それを観ながら話しましょう」


1時間ほどの中国陶磁 朝鮮陶磁 日本陶磁
のつながりを講義された後・・そう仰った

作るということは・・伝来に学び伝来に迫り
そして・・伝来から脱けることであり
その一連の流れの中に伝統は息づくのだろう

「要るものは外すべからず・・しかして
要らざるは入れるなかれ」
ずっと思い続けていることが・・多分
自我の客視につながる筈だ

そんなことを考えながら帰路についた




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by touseigama696 | 2015-09-28 09:00 | ●エッセイ | Comments(0)
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